京都市民寄席よまやま噺〜後〜

 さて50周年を迎えた市民寄席。第287回の出演者及び演目であるが、

「東の旅」桂吉弥
崇徳院桂小米朝
「高津の富」笑福亭松喬
「稽古屋」林家染丸
仲入り
口上 桂福団治林家染丸笑福亭松喬 司会 桂小米朝
太神楽 海老一鈴娘
「景清」桂福団治

となかなか豪華。小米朝が二つ目やしね。実はこの演目、第1回市民寄席の演目と同じネタにしている。昭和32年の9月23日に行われた第1回の出演者及び演目はこのとおり。

「東の旅」笑福亭福郎(後の初代森乃福郎)
「稽古屋」桂小文枝(後の文枝
「高尾」桂玉団治
「高津の富」笑福亭枝鶴(後の松鶴
崇徳院桂米朝
「いかけ屋」桂福団治(後の春団治
「景清」林家染丸(三代目染丸。今の4代目染丸の師匠 当時の上方落語協会会長)

出来たばかりの上方落語協会総出である。今から思うと贅沢な顔ぶれであるが、当時は世間に知られていたのは林家染丸ぐらいで後は駆け出しの若手でした。後に四天王と呼ばれる松鶴米朝文枝春団治は仲がよかった。仲間が少なかったのもあったが、上方落語を守ろうとする使命が彼らは同志としたのだろう。市民寄席のある会で春団治が踊りを披露した際に「三代目がやるんなら、やらんわけにはいかんやろ」と松鶴が太鼓を、米朝が囃し方をやったエピソードも微笑ましい。

小米朝米朝のネタをやり、松喬が松鶴のネタをやる。文枝一門から桂文太か桂坊枝が「稽古屋」をやればぴったりなんですが、まあ顔ぶれは負けず劣らずですな。祇園甲部歌舞練場も1000人近く入るんですが、大入り満員。私の席も後ろの方で高座までが遠い。おかげで何回かうとうとしました。

「東の旅」桂吉弥

桂吉弥は故・吉朝の二番弟子。世間的には「新撰組!」の山崎烝役が印象的なんでしょうね。(見てない)私が中学生の頃はお弟子さんがあさ吉さんだけだったので、生で見たのはこれがはじめて。「栄光の上方落語」に収録されている米朝の「東の旅」そっくりに演じていた。発端から煮売屋まで口演。

崇徳院桂小米朝

来年に米朝の師匠である米団治を襲名。これで米朝襲名の話は消えただろうし、本人もほっとしてるだろう。いずれは。。と言われてプレッシャーになってたやろうしなあ。昔、よくネタで「僕は月亭可朝を襲名しますから」と笑いを取ってたのを思い出す。小米朝は実は二代目で月亭可朝が名乗っていた時期があった。一応、可朝は米朝の一番弟子なんだが、林家染丸の弟子だったのを事情があって預かっただけなので、師弟関係はない。次の桂米紫(故人。裏方の人で落語は滅多にやらなかったが、何かの落語会で冒頭に挨拶をしていたのを見たことがある。確か京都在住だったと思う)も腹話術からの転向だったのでこれも師弟関係なし。次が枝雀でこれが実質の一番弟子になる。

小米朝はネタ数が少なく、私が中学生の頃、「稽古屋」「七段目」をやたらにやっていた。芸風は米朝よりも枝雀に似てて、陽気で派手な高座。

小米朝は昔、先ごろ亡くなった桂喜丸太融寺で「月とすっぽんの会」という勉強会をやっていて、私もよく通っていた。私のひいきは喜丸こときまやんだったのだが、「らくごのご」の向こうをはって「らくごのら」という三題噺をやったり、お寺でクリスマスにクリスマスキャロルを歌ったりと楽しい会であった。クリスマスは私も行ってたが、お寺の本坊にてタキシード姿でクリスマスキャロルを歌い上げる小米朝は。。。ようやるわ、と思ったもんだ。かっこよかったけど。

こうした勉強会は木戸が1000円であった。大体、場所は太融寺だったが、桂雀松の「雀松短期集中講座」や「吉朝学習塾」とかよく行ったもんだ。様々な会があったんで毎月のようにこのお寺には行ってたと思う。当然ながらお寺なんで時々、お通夜と重なることもあって。。あちらで笑ってる、こちらで泣いてるという不思議な光景が広がっていた。通夜の客に不思議そうな視線が向けられることがあった。東京と違って関西では落語専門の寄席がなかったので、こうした場での勉強会と称した落語会がよくあった。会場費がべらぼうに安かったし、交通の便もよかったのだ。寺脇研が寺での落語会について、死と笑いが隣り合う関西独自の文化だ、とか言ってたが別にそんなに難しい話ではない。太融寺は兎我野町の周辺で寺の回りに立ちんぼの方々がいらっしゃって、私もよくわからん外国の言葉で誘われたことがあった。

今、過去のプログラム見ると「崇徳院」もこの時、聞いていた。他に「小倉船」「野崎詣り」「はてなの茶碗」「皿屋敷」「蛸芝居」「高津の富」。。あ、意外にネタあるやん。でも、偏りはあるよなあ。全部聞いた記憶あるし、小米朝のファンだったんだな、私は。

「高津の富」笑福亭松喬

松鶴の四番弟子。古典落語の確かさでは笑福亭随一だろう。「高津の富」は笑福亭一門のお家芸で「らくだ」「天王寺参り」と並んで松鶴の得意ネタであった。落語を聞きだした頃、ABCラジオで笑福亭松鶴十三夜という特集があって、その一本目が「高津の富」であった。松鶴はそのめちゃくちゃなエピソードから破天荒なイメージがあって、まあ実際のところ、鶴瓶が「ウチの師匠はらくだみたいなオッサンやった」というようにまっとうでない人ではあったのだが、落語に対する姿勢は真摯であった文枝春団治が若手の頃に長老の橘ノ円都に稽古をつけてもらったが、同じ噺を別々に稽古してきてもらった。春団治は自分でも言うてるが、覚えの悪い人らしいので、さもありなんと思わせる話である。「なんで別々の噺を稽古してもらわへんのや!時間がもったいないやないか!」と松鶴は怒った。当時の上方落語は長老と若手しかおらず、長老は毎年のように亡くなっていた。多数のネタを知っている長老の存在は貴重で若手は一刻も早く、彼らのネタを学ばねばならなかったのだ。松鶴の父、五世松鶴は寄席が漫才中心になっていくのに抗して私費を投じて「上方はなし」を発行し、自宅を「楽語荘」と名づけて落語の同人を作り、独自の落語会を開いた。現在、上方に残ってるネタの多数は五世松鶴の口演を速記したものが多い。五世松鶴なくして、以降の上方落語はなかった。そうした父を見ていた松鶴であったから、そうした言葉が出たのだろうと思う。

松喬さんは語り口がやわらかく、いろんな人物が演じ分けられる器用な落語家で持ちネタも多い。今後も楽しみ。

「稽古屋」林家染丸
以前に書いたが、市民寄席で聞いた「三十石」はすごかった。「三十石」を持ちネタにする人は多く、枝雀のが一番好きだが、落語聞いて涙が出そうになったのはこの時が初めての経験であった。「稽古屋」は亡くなった先代の桂小文治のが一番好きだが、楽しい噺である。落語は華やかでご陽気ではんなりとした、、直接の師弟関係はないが、桂文枝に雰囲気がよく似ている。文枝一門にはこうした落語家がいないんで、特にそう思う。大学生の頃、造形芸術大学での彼の講座を取ったことがあって、落語の基礎知識について勉強しておった。後半に希望者には落語の実演もあって、参加しとけばよかったと今でも悔やんでおる

「景清」桂福団治
福団治も若い頃は裸で道頓堀を歩いたり、髭を生やして高座にあがったりと破天荒な人だったらしい。息子の福若がああなのも、まあ血なんだろう。はじめ、見た時はびっくりしたが。上方落語には珍しく、人情噺を得意とする人で「藪入り」や「蜆売り」のうまさには舌を巻いた。主演映画が一本。大正時代に活躍した落語家をモデルにした「鬼の詩」。気持ち悪すぎて、見ちゃおれん作品であった。が、福団治の熱演がすさまじかった。落語家が本気で俳優に取り組んだ数少ない作品であろう。まあ桂枝雀も「ドグラ・マグラ」で主演してるんだが。。これも気持ち悪い作品であるが、こちらはまあ笑って見てられる。

枝雀も晩年には舞台やドラマに出ていたが、昭和50年代にブレイクした際に「なにわの源蔵事件帖」というドラマをやっている。落語家が演技するとどうしても台詞がくさく、オーバーアクションになりがちで枝雀の演技もまさにそうだったが、これは面白かった。明治時代の京都、大阪を丁寧に描いており、ストーリーもよくできていたし、NHK大阪の職人技が堪能できた作品で私は再放送でこれを見ている。後年、笠原和夫が「浪人街」の脚本を書いた際に赤牛役に枝雀を考えていたらしいので、少し驚いた。晩年になってドラマや舞台に出演し始めたのも、落語に行き詰まっていたので、違ったことをして何か打開しようとしてたんだろうけど。。いや、よそう、この話は。

話を戻す。「景清」は米朝でしか聞いたことがないが、病気で視力を失った職人が清水の観音さんに願掛けするのがストーリーライン。東京ほど人情噺がからないが、しんみりさせる落語である。福団治の淡々とした語り口調に引き込まれた。この人の芸は既に師匠を超えてしまってるし、芸風もまるで違うんで案外、4代目はつがないんじゃないかなと思う。福団治には「上方落語はどこへゆく」という書籍があり、いろんな落語家と上方落語がどうなっていくのか、について語っている。その見通しが。。なんか暗いのだ。勉強会だけでメシを食えるのか、角座やNGKが如何に落語をやるのにはむごい空間なのか、についてひしひしと語られている。名著である。なお、福笑との対談で今は落語界のタブーになっている笑福亭枝鶴(松鶴の実子)についても語られており、福笑が「枝鶴はあかん奴やったけど、そないにボロカスに言われんでもええ」とかばっていた。枝鶴なあ。。今は浮浪者しとるらしいが。。枝鶴については笑福亭松枝の「ためいき坂 くちぶえ坂」(これも名著!)でも触れられていたが、本人が悪いんだが、少し気の毒でもある。「栄光の上方落語」のおまけCDで一門による松鶴の追善大喜利がおさめられているが、散々に枝鶴をネタにしている。鶴志が「しょかく」の折句で「松鶴死に かわいい息子は 雲隠れ」と読んだりともうめちゃくちゃ。不謹慎だが、めっちゃ笑えた。

以上で終演。出ようとすると雨が結構な勢いで降ってきてしばらく、雨宿りして帰りました。そんなのもよい思い出ですな。この長いレポもおしまい。お付き合いいただきまして、ありがとうございました。次の市民寄席?もちろん、チケットゲット済みです。笑福亭福笑が出る。

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上方落語家名鑑ぷらす上方噺

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上方落語はどこへゆく (なにわ叢書 1)

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ためいき坂くちぶえ坂―松鶴と弟子たちのドガチャガ

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当ブログは何があろうとも生涯一沢尻エリカ主義を貫きます!

頼む 一回踏んでくれ

自分の主演映画での舞台挨拶でここまで不機嫌になれる沢尻エリカはすごすぎだ!
多分。。竹内結子が嫌いなんでしょう。それかインタビュアーがめっちゃ嫌いか。。この冷たいまなざしが。。。たまらぬ!(アホか)なんにしても「クローズド・ノート」。主演女優がここまで嫌ってるんなら見なくてもいいかな、と。伊勢谷友介出てるしな。。

京都市民寄席よまやま噺〜中〜

もう少し、市民寄席の思い出話をやります。一度書いたかもしれない。中学3年生の頃、心の奥に秘めた密かな願望であったのだが、私は将来、落語家になるつもりであった。落語が好きだったのもあったが、当時の私は学校に馴染めず、また成績もバカ十哲と呼ばれるほど悪かったので、大学進学も無理だと思っていたのだ。今にして思えばだが、なんでこんなに悪かったのかよくわからない。勉強せずに悪いのならわかるが、それなりに勉強してたのだから、もう少しよくてもよかったのだ。。俺はホンマにアホやないやろか、学校に行くのが厭になった。

そうした時期に私の支えになってくれたのが落語だった、と今となってはそう思う。高校進学があったので、登校拒否はしなかったが進学が決まった(うちは中高大一貫)3学期はよく休んだ。特に、土曜日に学校行くのが厭になり、出席しなくなった。当時、土曜日の朝にやっていたざこばと遥洋子の「ときめきタイムリー」を毎週見ていた記憶があるので、ほとんど出席してなかったのだ。不思議なことに父母は何も言わなかった。後に母親にその時のことを聞いたが、「思春期は色々あるからなあ」の一言であった。大して気にならなかったのだろう。高校に進学してからは成績が上り始め、学校にも普通に通っていた。そしていつしか、落語家になる夢も無くなった。

しかし、学校の勉強ができないからと言って、落語家を志す、というのも極端な話である。落語家を何だと思っていたのだ。まあ子供の思考などそんなもんなのかしれないが、後にも先にも何かになりたいと思ったのはあの時期だけである。もし、あの頃に落語家になると父母に話しても、「あんたには無理や」と一笑されて終わりであったろう。

市民寄席に話を戻す。当時の市民寄席は甲子園みたいに年間予約席という制度を持っていた。年6回の通しの券、これには割引がつく、を同じ座席で年間楽しめるという落語ファンにとっては嬉しい企画である。年間9700円。。中学生にはキツイ値段であったが、当時の私は祖母から月1万円ほどの小遣いをもらっていたので、あまりためらいがなかった。平成5年度、6年度、私は中学3年生、高校1年生だったが、これを申し込んでいる。平均年齢は私の年齢の4倍ぐらいだった。年寄りに混じって落語を楽しんでいた。

ここに当時のパンフレットが残っている。演者と演目を見るだけで当時の記憶が思い出される。案外、覚えているものである。パンフの文章を書いていたのは米朝師匠の兄弟子になる故・桂米之助師匠。この人は落語家でありながら、大阪交通局職員として定年まで勤め上げた人で、もっぱら裏方の仕事を担当した。落語もほとんど聞いたことがない。ファイルによると、上方落語勉強会(ここの世話役でもあった)で「仔猫」を聞いているが、あまり印象がない(はっきり書くと下手であった)。文才に富んだ人で著書もいくつかある。同僚だった桂文枝を落語の世界に引きずり込んだのもこの人である。

今から10年前のことである。当時からも顔ぶれは豪華であった。物故者も多い。桂文枝桂文紅桂吉朝桂歌之助笑福亭松葉、林家染語楼そして桂枝雀米朝師匠も元気だった。こうした今は見られない芸人の全盛期を味わうことができたのは幸せなことだったと思う。

平成5年5月26日
「田楽食い」笑福亭瓶太
「代書」桂小春(現・桂小春団治
「神だのみ 初恋編」桂雀三郎
「胴乱の幸助」桂米朝
「天狗刺し」笑福亭松枝
「質屋芝居」林家染丸

平成5年7月29日
「つる」笑福亭福輔
「青空散髪」林家染語楼
「宿替え」桂米輔
「蛇含草」桂文紅
「遊山舟」笑福亭松喬
「こぶ弁慶」桂枝雀

平成5年9月24日
「強情灸」桂福車
「七段目」桂む雀
「四人ぐせ」桂春若
「池田の猪買い」笑福亭仁鶴
「夏の医者」桂べかこ(現・桂南光
「仔猫」桂福団治

平成5年11月18日
「みかん屋」桂出丸
「禁酒関所」笑福亭仁勇
「夢八」桂雀々
「しびんの花活け」桂文紅
「無い物買い」笑福亭福笑
「蔵丁稚」桂春之輔

平成6年1月18日
「花色木綿」桂小茶久
「昭和任侠伝」桂昇蝶
「春雷」笑福亭鶴瓶
「猿後家」桂文枝
曲独楽 桂米八
「寝床」桂歌之助

平成6年3月23日
「米揚げいかき」笑福亭銀瓶
「鍬潟」桂都丸
「近日息子」桂文太
「猫の災難」露の五郎
「隣りの桜」笑福亭松葉
「鬼あざみ」桂南光

平成6年5月26日
この日は試験と重なったんで休んだ

平成6年7月28日
湯屋番」林家染吉
「義理ギリコミュニケーション」桂あやめ
花筏桂吉朝
「松山鏡」露の五郎
スタディベースボール」笑福亭仁智
「怪談 お紺殺し」桂文紅

平成6年9月22日
「江戸荒物」笑福亭仁昇
「七度狐」桂米平
「親子酒」桂文喬
崇徳院笑福亭仁鶴
八五郎坊主」笑福亭松枝
「くっしゃみ講釈」桂福団治

平成6年11月17日
「長頭まわし」桂小國
「天災」笑福亭学光
「二人ぐせ」桂春駒
「百年目」桂文枝
「手品根問」桂朝太郎
「世帯念仏」笑福亭福笑

平成7年1月17日
阪神大震災のために中止。京都は揺れがひどいものの、家屋の倒壊などなく、割と呑気であった。我が家でも茶碗一つ割れずに普通に学校に向かったが電車が完全にストップ。これぐらいの地震で、、という感じだったがこの日は休校になった。市民寄席はどうなんねんやろ。。電話は不通だったので、2時ごろに公衆電話から京都市に電話。「えー多分やると思います。。」ホンマかいな、と思い、家に帰ると電話が復旧しており、まもなく京都市から中止のお知らせ。さっきのは何だったのか。夕方になって燃え盛る神戸の町を見て、真っ青になった。落語会どころやなかったのだ。。

ちなみにこの日、神戸あたりに住んでいた笑福亭福笑はこの日、家が半壊。この日、出番だったので午前中に京都市に電話すると「今日はやります」とのことであったので、何時間もかけて京都会館に向かった。着いた途端に中止だと言われてすごすご帰ったとか、後日に何かの落語会で聞いた。ちなみに福笑は被災経験を元に「ボランティア」という新作落語を作っている。もちろん、好意はありがたいんだが、変な輩もいっぱい来て、そうしたことを描いた落語。さすが福笑である。

京都市は呑気だな、と思われるだろうが、震災当日の京都、大阪はこんなもんだったのだ。神戸がえらいことになってることを知ったのは夕方以降であったのだ。地震も当初は京都が最大震度だと報道されており、揺れは大きかったものの、たいした地震じゃなかったな、とか思ってたのだ。とにかく、情報が来るのが遅かった。民放も通常の放送だったしな。京都、大阪でこれだから東京の反応はさらに鈍く、官邸の対応が遅かったのもわかる。震災から一週間後に上方落語勉強会があって、その時のパンフが残ってるが、東京の地震学者が「東京じゃなくてよかった!」と発言したり、震災現場に来て写真を撮って帰るアホがいたり、当時の府知事(ノックの前ね)が「炊き出しぐらい自分でやれ」と被災者を罵倒したり、と色々あったことを思い出す。しばらくはグラッと来たら、ビクッと起きてましたな。

平成7年3月22日
「軽業」林家染八(現・林家小染
「傾城の誠」桂枝三郎
「欲の熊鷹」笑福亭鶴志
「猿後家」桂文紅
「首提灯」笑福亭松喬
「三十石」林家染丸

書き出してみると、やっぱり豪華な顔ぶれだったんだなあと思う。どの回にも桂文枝笑福亭仁鶴露の五郎と言った大御所級が出演している。今から10年以上も前のことだが、やっぱり記憶が断片的に甦ってくる。席は一番前で回りは自分の年齢の4倍ぐらいの人ばかり。年寄りに混じって落語を楽しむ中学生は周囲からは目立ってたんだろうなあ、、当時は2週間に1回ぐらいの割合で落語会行ってたもんな。。

大きな会館だったのに、滅多に満杯にならない。始まってから、仕事帰りの人がバラバラ来てたんで幕開きはガラガラ。前座さんはつらそうだったが、時間が進むごとにどんどん熱気がむんむんでトリの時には割れんばかりの笑い声で大盛り上がりであった。特に林家染丸師匠の「三十石」の熱気を今でもはっきり覚えている。舟歌のシーンで場内がシーンと静まり、思わず涙が出そうになった。観客全員がその芸に酔っていたのだ。

中学生の頃、京都市に市民寄席の過去のプログラムをもらいに行ったことがあった。京都会館にあった文化課まで市バスでもらいに行ったことを思い出す。200回記念の時に作ったパンフのコピーに載った過去のプログラムに目を輝かせた。今はそのコピーがどこに行ったか覚えてないが、入門仕立ての桂三枝が古典をやっていたことと、前座の名前に笑福亭さんま(さんまはほんの一時期、落語をやっていた。正確さでは若手随一で本人もよく稽古したらしいが、全く受けなかったらしい。この人は笑福亭松之助の弟子。松之助も露の五郎と一緒で、ずっと落語をやってたわけではない。若い頃は吉本新喜劇の脚本を書き、座長をやってたこともあり、割と何でもできる人なんである。ただ、落語の持ちネタの数は随一で今の落語家で松之助に稽古をつけてもらってない人はいないと言われるほど。。の割には落語はそんなにうまいとは思わんのだが。。先日、湯布院映画祭で見た「弥次喜多道中 てれすこ」で松之助が出ていた。平山秀幸監督は松之助のファンで松之助が出演している会にもよく行くらしい。松之助が撮った「夢だけが人生やない」(YOSHIMOTO DIRECTOR'S 100 〜100人が映画撮りました〜
の一本)を見て激賞していた。。話がそれまくりだが、さんまを育てた師匠はそういう人だったわけです)を見つけて一人で盛り上がっていた。それからもう10年以上がたったわけである。私が最後に行った会が第215回だが、今回は287回。あと何年かで300回である。多分、300回は行くでしょう。

こんなこと書くとそれ以来、久しぶりに行ったみたいですが。。一昨年からまた落語熱が再発して、市民寄席は連続で通ってるんで、別にそう感慨深げにならなくてもいいんですが。。

もうちょっと続きます。

tetorapot2007-10-06

しばらく落語づくしっす。湯布院映画祭メモも書かなあかんのですが。。

あ、「ちりとてちん」面白いです。ストーリーの端々に落語の題材(「天災」や「胴乱の幸助」。知ってる人しかわからんけど)をちりばめてるのにもニヤリとさせられる。これから、貫地谷しほりがどうして落語家を志すようになるのか、そこの部分をきっちり描いたらあとはキャストだけで遊べますな。松重豊和久井映見の夫婦のやり取りを見てるだけで笑えてくる。クラスに同じ苗字がいる場合、どっちかは必ず迫害されるというポピュラーな苗字の悲劇も描かれてて笑えた。和田A、和田Bって。でも「貧乏な山本」とか「アホの山田」とか「ブスの和田」とか「朝潮に似てる森田(女子)」とか「皮かむっとる佐野」とかクラスにいっぱいいたよな。。

犬塚稔、死去

tetorapot2007-09-26


犬塚稔が亡くなった。1901年生まれで享年106歳。22歳の年に関東大震災を経験し、(被災はしていない)長谷川一夫のデビュー作「稚児の剣法」を監督した人なので、もはや映画史上の人であった。

先日、湯布院映画祭で撮影監督の森田富士夫氏にお話を伺った際に「犬塚稔さんはまだお元気なんでしょうか?」と聞いてみたところ、「さあ、、多分死んだと聞かないから元気やないかな」とのお返事であった。大映の大先輩だし、当然交流があると思っていたがそうでもなかったらしい。やはり、勝新太郎との裁判の影響だろうか、などと思った。ちなみに森田氏には勝新について、色々伺ったんでまた書きます。昔のことばっかり尋ねるケッタイな男を気に入ってくれたのか、色々話してくれました。森田監督も今年80歳です。みんな、年いきましたな。

大映ファンにとっての犬塚稔はやはり「座頭市物語」などの大映傑作時代劇の脚本家としての仕事ぶりが印象的だが、戦前は監督としても活躍した。前述の長谷川一夫(当時はまだ林長二郎。後に松竹から東宝に移籍した際に、松竹が雇った極道に顔を切られた)のデビュー作となった「稚児の剣法」は同時に犬塚稔の監督、脚本デビュー作であり、撮影を担当した円谷英二にとってもデビュー作であった。長谷川一夫は本作でブレイク。犬塚も監督の才能を認められて、一時期は阪東妻三郎阪妻プロに引き抜かれる。阪妻プロでは9日で映画を撮ったりと随分苦労したらしい。

戦後は脚本に専念。時代劇を得意とし、大映の全盛期を支えた。市川雷蔵の「お嬢吉三」(田中徳三監督作品)もこの人が書いた。同期デビューの市川雷蔵に比べるとなかなか目が出なかった勝新は、人の道を外れたあんまが悪行の限りを尽くすエログロ講談「不知火検校」に出会う。勝新は自ら、原作権を交渉し、頭をそり上げ、徹底的に役作りに専念する。そうした勝新の意欲にスタッフも応えた。脚本を犬塚稔、監督は森一生。二人とも映画を知り尽くしたベテランであった。「不知火検校」は犬塚にも森にも、そして勝新にとっても代表作となり、勝新は念願のブレイクを果たす。犬塚稔は「不知火検校」で勝新が演じた「杉の市」から、あるキャラクターを創造する。上下関係が厳しいあんまの世界で自由に生きる、酒と博打と女が大好きで、腕が滅法切れる、盲目のヤクザ。。子母澤寛の短編から題材が取られた「座頭市物語」で勝新大映を、やがて日本を代表する俳優となる。しかし人気シリーズになるにつれて、徐々に座頭市のイメージを巡って、犬塚は大映と対立。遂には座頭市シリーズから降板し、同時に映画界からも離れてしまう。

「にっぽん脚本家クロニクル」によると後に勝は犬塚に侘びを入れて、もう一度脚本を書いてもらっている。それが1972年の「新座頭市物語 折れた杖」。勝自身の監督作品である。犬塚氏は出来栄えには満足しなかった(実際につまらん作品である)ようだが、テレビの「座頭市」シリーズにも脚本を提供している。しかし、1989年の「座頭市」の脚本料を巡って両者の関係は決裂。訴訟にまで発展している。

2002年の阪妻映画祭のパンフレットに山根貞男さんが行ったインタビューが載っている。この時、御年101歳。戦争末期、田舎に墜落したB29の乗組員を描いた脚本を執筆中、その名も「ラブ・イズ・ベスト」(すげえ題名)を執筆中と語っている。同年、ドキュメンタリーへの出演、エッセイの出版も行っているそうだが、私は見ていない。

正直、まだ生きてはったんや、という感が強いが、100歳越えてもまだ脚本を書き続けていたという気力に胸を打たれる。

悪の限りを尽くす悪人を描きながらもどこかに爽快感を感じさせてくれる「不知火検校」も好きだが、スタイリッシュで最高にかっこいい男なれど、ラストに「俺たちヤクザは日陰者だ。。調子にのるんじゃねえ!」と自己を否定するニヒリズムで、観客をしびれさせた「座頭市物語」が好きだ。荒々しくもあり、どこかさびしげなアンチヒーロー、という今までの映画になかったキャラクターを作って見せた脚本家、そしてそれを自分のハマリ役にした俳優、そして持てる職人技でその世界観を実現させた監督。。昔の映画はかくも豊饒であったのだ。勝新太郎、三隅研二(「座頭市物語」監督)、森一生は既に無い。大映、いや日本の映画史を知り尽くした男が世を去った。晩年の滋賀県にご在住であったと聞く。合掌。


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阪妻―スターが魅せる日本映画黄金時代

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映画は陽炎の如く

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京都市民寄席よまやま噺〜序〜

tetorapot2007-09-23


京都市民寄席に行って来た。本日は50周年記念で会場はいつもの明倫、京都芸術センターではなく、祇園甲部歌舞練場にて開催。都をどりの会場ですな。

市民寄席が始まった昭和32年。行政主催の落語会としては初めての試み。当時の京都は富貴もあったし、京都花月もあったが、当時の寄席は漫才が中心。落語もあったが、漫才の間に挟まった短い時間しかない。これは京都だけでなく、大阪も同じことで、実は未だに角座やNGKでは同じ状況が続いている。落語をたっぷり聞く場があんまりなかったのだ。大好評につき、会場は祇園八坂倶楽部、先斗町歌舞練場、祇園会館を経て、京都会館に年4回の開催が年6回になった。私が通っていた時期はちょうどこの頃。前の方はしっかり詰まっていたが、後ろと2階の自由席はガラガラ。会場が大きすぎた。現在は年4回の開催となり、会場もぐっと小さくなり、明倫の京都芸術センターに移転した。

市民寄席のもう一つの特徴は協賛、番組編成が上方落語協会であったことだ。協会が結成されたのは昭和32年。市民寄席が始まった年である。市民寄席の歴史はそのまま、協会の歴史でもあるのだ。だから協会は市民寄席をとても大切にしており、後年になっても桂文枝桂春団治桂米朝と言った大看板が出演していた。ここのギャラはめちゃくちゃ安かったそうだが、若手落語家にとっては市民寄席に出るのが一つの励みであった。たっぷりと時間をかけて大ネタがやれる数少ない機会であったからだ。編成を行っていたのは桂米朝。出演者からネタまで全部決めていた、という。

どうして協会が市民寄席を大切にしたのか。それは京都で本格的な落語をする場がなかったこともあるが、当時の上方落語を巡る状況も関係する。当時の上方落語どん底であった。昭和20年代後期に五代目笑福亭松鶴、二代目桂春団治、桂米団治といった大看板を次々と失い、残ったのは一線を退いた長老と落語をやっと覚えだしたばかりの若手が数人。。六代目松鶴米朝文枝も三代目春団治も落語家の卵であった。唯一、寄席にも出演している大看板と言えば三代目林家染丸。この人が初代の会長である。当時、大阪在住であった司馬遼太郎は落語ファンであったが落語と言えば東京、当時の江戸落語桂文楽古今亭志ん生三遊亭円生と黄金期を迎えていた、上方落語の存在をよく知らなかったらしい。米朝によると当時の上方落語に対する、一般認識は「上方落語?ああ、まだあったんかいな」であったそうだ。恐ろしいことに、これが関西人の一般認識であったのだ。

上方落語協会は東京の落語協会とは大きく性格が違う。東京は落語専門の寄席があり、落語協会落語芸術協会が落語家を出演させている。協会に入らないと寄席への出演ができない。しかし、上方落語協会は違う。寄席への出演は、落語家本人が所属する会社、松竹や吉本が決める。

協会はただの親睦団体であった。だからこそ、協会が主催する落語専門の寄席が協会にとっての悲願であったのだ。二代目会長となった松鶴は島之内教会を借り受け、島之内寄席を昭和47年にスタート。月数日の興行であったが、はじめて協会が主催した落語会であった。が、これも会場が転々とし、いつしか月イチ興行となっていった。今は皆様、ご存知のように協会が主催する定席、天満天神繁昌亭が平成18年9月に完成。一年たった今も連日満員が続いている。長い長い道のりであったのだ

なお、協会の歴代会長は染丸(吉本)→松鶴(松竹)→春団治(松竹)→文枝(吉本)→露の五郎兵衛(元吉本)→三枝(吉本)となっている。米朝の名前がないのだ。平成6年に露の五郎が会長に選出されたことで、事件が起こった。協会の運営に不満があるとして、桂枝雀桂ざこば一門が協会を脱退。脱退の理由は明白で米朝が会長になれないことへの不満であった。露の五郎はその昔、上方落語がドン底の時期に役者に転向していたことがある。苦労を知る者から見れば、裏切り者に見えたのであろう。(露の五郎は自著でもそのように書いている)「親睦団体ならいる必要おまへん」枝雀の発言に協会は反論することができなかった。

なお、後にざこば一門は復帰したが、枝雀一門は未だに復帰しておらず、繁昌亭への出演もない。ざこばは枝雀への義理で脱退したらしく、三枝が会長になった際に三枝自ら復帰を呼びかけたらしい。一方、三枝と南光は枝雀が亡くなった際に一応の和解はしているが、膝詰めで話すほどの信頼関係はないのだろう。協会のホームページの協会員系図では一門おろか、枝雀の名前すら載っていない。少しひどい。

また米朝一門でも末弟の桂宗助は所属していないし、その一つ上の桂団朝も長らく所属してなかった。米朝も故意に団朝、宗助は所属させなかったらしく、協会の運営に考えることがあったのだろう。亡くなった先代歌之助は脱退直後の彦八まつり(これは協会主催のおまつり)の楽屋にて露の五郎と二人きりになったらしく、とても気まずい雰囲気になった、と語っていた。米朝一門が脱退するのではないか、とも噂されたが、後続は出ず。ちょうどこの時期、七代目笑福亭松鶴問題で笑福亭一門は大荒れでぎすぎすした雰囲気が広がっていたのを思い出す。笑福亭福笑が「七代目笑福亭松鶴襲名ドキュメンタリービデオ 骨肉」(確かこんな名前だった)をどっかの落語会で上映するとか言ってたのを思い出す。。ああ、あれは見たかった。。

関係ない話題が続いてしまったが、(南光と三枝の喧嘩についてはリクエストがあったらまた書きます。かなりみっともない喧嘩です)市民寄席がそうした上方落語が苦しい時期に始まったこと、そして、協会が初めて協会として編成を行った落語会であるという二つのことから思い入れの深い落語会になっているのだ。

そして私にとっても市民寄席は大変思い出深い落語会であった。ここに一冊のファイルがある。ここには過去に行った落語会のパンフやチラシがファイリングされている。初めて市民寄席に行ったのは平成5年3月24日に開催された第203回市民寄席。出演は桂文華、桂雀々桂春之輔笑福亭仁鶴立花家千橘、そしてトリはこの前年に襲名したばかりの桂文枝であった。当時、中学2年生。私の本格的な落語会通いが始まったきっかけであった。

思い出話は楽しく、そして長い。わあわあ言うております。おなじみの「市民寄席よもやま話」序、お時間でございます。


あ、明日か明後日には続きやるよ。だって結局、50周年記念については何も書いてないもん。書き出すとマジでとまらんのよ。

おそまきながら。。9月雑感

tetorapot2007-09-22


9月に入り、引越しを致しました。自宅新築中につき、しばらく高槻に仮住まいしておったんですが、家が完成したんでまたもや戻ったということですな。高槻も草深い故郷に比べると駅前も発達しておりますし、都会を愛する私には相性がよい街ではあったのですが、駅からのバス通学、いや通勤は結構しんどかった。通勤時間が倍になりましたからね。。。まあそれでも1時間ないんですが、やっぱり面倒くさい。もうバス通勤は厭だな、と思い出した時期にやっと引越し。故郷にさほどの愛着がないけれども、新築。これはやっぱりいいです。何がいいって、雨戸がスムーズに閉まるのがいい!

どんなあばら家に住んでいたのか、と思われるかもしれませんが、改築改修を施したとは言え、築40年、この住宅地ができてから一度も建て直しはなかったのですから、そうした古い家に住む覚悟というか辛抱、そんなものは気にすれば、到底我慢できませんから、鈍感にならざるを得ません。よって、家は古いもの、雨戸は容易に閉まらない、ものとご幼少のみぎりから前頭葉か右が左か後ろか知りませんが、脳みその皺にはしっかり織り込まれて、齢三十路を迎えようとしていたのでございます。

だから新築の家は日々、驚きと感動!こうしたものに慣れ始めた時期に家がそろそろボロになってきてまた鈍感にならざるを得なくなるのですが、このおうちは両親のおうちで、「おまいさんも30歳なんだから。。ぼちぼち独り立ちしてくれないかねえ」とおっかさんの繰言を右から左へ受け流し、住み心地最高となった我が家を出て行く気はさらさらなく、おっかさんも孫の顔をいつまでたっても見れない、とんだ親不孝もんでございます。でもね、世の中には棄てる神があれば、、ってことがあらあね、そんなに棄てられてたまるもんかね今に見ておれ、でございますよ

最近は映画も見てますが、落語を聞く機会も増えました。昔から好きですが、笑福亭福笑にハマっております。16日に天満天神繁昌亭行ってきたんですが、福笑がトリで客席をどっかんどっかん沸かせてました。それも延陽伯なんて地味な話で。あんなに笑ったのは久しぶりで落語会初めてのご友人も同行していたんですが、少しひいてました。天性のゲラで笑ってる間だけが心平穏。騒がしい男でございますな。明日は京都市民寄席50周年記念、会場も祇園甲部歌舞練場で二つ目に桂小米朝笑福亭松喬林家染丸桂福団治とめっちゃ豪華!テープ、CDでは古今亭志ん朝をイチから聞きなおし。それから夢路いとし・喜味こいしの漫才にも惚れ惚れ。若い頃の録音は会話のテンポがとにかく速くて爆笑の連続。

ってなことで、日常に完全復帰しましたんで今後は頑張って更新いたしますです。また出来ん約束を、とお笑いくださるな。まずは湯布院映画祭メモから、乞うご期待。

あ、8月、9月も映画は見てたんですよ。感想はもちろん書く気ですけど、おまけに星取表やっときます。
8月の金星は「河童のクゥと夏休み」と石井隆の「人が人を愛することのどうしようもなさ」ですね。津田寛治に尽きます。
9月はまだ終わってないんですが、、「題名のない子守唄」と「ジャンゴ」がかなりのお気に入り。桃井かおりがよいっす。


★怪談 8/5 高槻ロコ9シネマ9
→★★★
図鑑に載ってない虫 8/8 京都シネマ
→★
父親たちの星条旗 8/11 祇園会館
→★★★★
硫黄島からの手紙 8/11 祇園会館
→★★★★★
★陸に上った軍艦 8/12 シネ・ヌーヴォ
→★★★
レミーのおいしいレストラン(日本語吹替版) 8/16 MOVIX京都シアター12
→★★★
河童のクゥと夏休み 8/17 MOVIX京都シアター8
→★★★★★
女殺油地獄 8/23 湯布院公民館 湯布院映画祭2007
→★★
★こおろぎ 8/23 湯布院公民館 湯布院映画祭2007
→★★★
☆疵千両 8/24 湯布院公民館 湯布院映画祭2007
→★★★★
☆怪談雪女郎 8/24 湯布院公民館 湯布院映画祭2007
→★★★
☆彼女だけが知っている 8/25 湯布院公民館 湯布院映画祭2007
→★★★★★
かぞくのひけつ 8/25 湯布院公民館 湯布院映画祭2007
→★★★
★人が人を愛することのどうしようもなさ 8/25 湯布院公民館 湯布院映画祭2007
→★★★★★
☆鬼火 8/26 湯布院公民館 湯布院映画祭2007
→★★★
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 8/26 湯布院公民館 湯布院映画祭2007
→★★★★
やじきた道中てれすこ 8/26 湯布院公民館 湯布院映画祭2007
→★★
天然コケッコー 8/31 京都シネマ
→★★★★
▲街のあかり 9/2 みなみ会館
→★★
ショートバス 9/2 みなみ会館
→★
デス・プルーフ in グラインドハウス 9/9 高槻ロコ9シネマ9
→★★★★
★ラッシュ・アワー3 9/9 高槻ロコ9シネマ9
→★★
▲題名のない子守唄 9/12 京都駅ビルシネマ・イタリア映画祭
→★★★★★
ニュー・シネマ・パラダイス 9/13 京都駅ビルシネマ・イタリア映画祭
→★★★
★ジャンゴ 9/17 高槻ロコ9シネマ3
→★★★★★
●シッコ 9/21 MOVIX京都シアター6
→★★★