京都市民寄席よまやま噺〜中〜

もう少し、市民寄席の思い出話をやります。一度書いたかもしれない。中学3年生の頃、心の奥に秘めた密かな願望であったのだが、私は将来、落語家になるつもりであった。落語が好きだったのもあったが、当時の私は学校に馴染めず、また成績もバカ十哲と呼ばれるほど悪かったので、大学進学も無理だと思っていたのだ。今にして思えばだが、なんでこんなに悪かったのかよくわからない。勉強せずに悪いのならわかるが、それなりに勉強してたのだから、もう少しよくてもよかったのだ。。俺はホンマにアホやないやろか、学校に行くのが厭になった。

そうした時期に私の支えになってくれたのが落語だった、と今となってはそう思う。高校進学があったので、登校拒否はしなかったが進学が決まった(うちは中高大一貫)3学期はよく休んだ。特に、土曜日に学校行くのが厭になり、出席しなくなった。当時、土曜日の朝にやっていたざこばと遥洋子の「ときめきタイムリー」を毎週見ていた記憶があるので、ほとんど出席してなかったのだ。不思議なことに父母は何も言わなかった。後に母親にその時のことを聞いたが、「思春期は色々あるからなあ」の一言であった。大して気にならなかったのだろう。高校に進学してからは成績が上り始め、学校にも普通に通っていた。そしていつしか、落語家になる夢も無くなった。

しかし、学校の勉強ができないからと言って、落語家を志す、というのも極端な話である。落語家を何だと思っていたのだ。まあ子供の思考などそんなもんなのかしれないが、後にも先にも何かになりたいと思ったのはあの時期だけである。もし、あの頃に落語家になると父母に話しても、「あんたには無理や」と一笑されて終わりであったろう。

市民寄席に話を戻す。当時の市民寄席は甲子園みたいに年間予約席という制度を持っていた。年6回の通しの券、これには割引がつく、を同じ座席で年間楽しめるという落語ファンにとっては嬉しい企画である。年間9700円。。中学生にはキツイ値段であったが、当時の私は祖母から月1万円ほどの小遣いをもらっていたので、あまりためらいがなかった。平成5年度、6年度、私は中学3年生、高校1年生だったが、これを申し込んでいる。平均年齢は私の年齢の4倍ぐらいだった。年寄りに混じって落語を楽しんでいた。

ここに当時のパンフレットが残っている。演者と演目を見るだけで当時の記憶が思い出される。案外、覚えているものである。パンフの文章を書いていたのは米朝師匠の兄弟子になる故・桂米之助師匠。この人は落語家でありながら、大阪交通局職員として定年まで勤め上げた人で、もっぱら裏方の仕事を担当した。落語もほとんど聞いたことがない。ファイルによると、上方落語勉強会(ここの世話役でもあった)で「仔猫」を聞いているが、あまり印象がない(はっきり書くと下手であった)。文才に富んだ人で著書もいくつかある。同僚だった桂文枝を落語の世界に引きずり込んだのもこの人である。

今から10年前のことである。当時からも顔ぶれは豪華であった。物故者も多い。桂文枝桂文紅桂吉朝桂歌之助笑福亭松葉、林家染語楼そして桂枝雀米朝師匠も元気だった。こうした今は見られない芸人の全盛期を味わうことができたのは幸せなことだったと思う。

平成5年5月26日
「田楽食い」笑福亭瓶太
「代書」桂小春(現・桂小春団治
「神だのみ 初恋編」桂雀三郎
「胴乱の幸助」桂米朝
「天狗刺し」笑福亭松枝
「質屋芝居」林家染丸

平成5年7月29日
「つる」笑福亭福輔
「青空散髪」林家染語楼
「宿替え」桂米輔
「蛇含草」桂文紅
「遊山舟」笑福亭松喬
「こぶ弁慶」桂枝雀

平成5年9月24日
「強情灸」桂福車
「七段目」桂む雀
「四人ぐせ」桂春若
「池田の猪買い」笑福亭仁鶴
「夏の医者」桂べかこ(現・桂南光
「仔猫」桂福団治

平成5年11月18日
「みかん屋」桂出丸
「禁酒関所」笑福亭仁勇
「夢八」桂雀々
「しびんの花活け」桂文紅
「無い物買い」笑福亭福笑
「蔵丁稚」桂春之輔

平成6年1月18日
「花色木綿」桂小茶久
「昭和任侠伝」桂昇蝶
「春雷」笑福亭鶴瓶
「猿後家」桂文枝
曲独楽 桂米八
「寝床」桂歌之助

平成6年3月23日
「米揚げいかき」笑福亭銀瓶
「鍬潟」桂都丸
「近日息子」桂文太
「猫の災難」露の五郎
「隣りの桜」笑福亭松葉
「鬼あざみ」桂南光

平成6年5月26日
この日は試験と重なったんで休んだ

平成6年7月28日
湯屋番」林家染吉
「義理ギリコミュニケーション」桂あやめ
花筏桂吉朝
「松山鏡」露の五郎
スタディベースボール」笑福亭仁智
「怪談 お紺殺し」桂文紅

平成6年9月22日
「江戸荒物」笑福亭仁昇
「七度狐」桂米平
「親子酒」桂文喬
崇徳院笑福亭仁鶴
八五郎坊主」笑福亭松枝
「くっしゃみ講釈」桂福団治

平成6年11月17日
「長頭まわし」桂小國
「天災」笑福亭学光
「二人ぐせ」桂春駒
「百年目」桂文枝
「手品根問」桂朝太郎
「世帯念仏」笑福亭福笑

平成7年1月17日
阪神大震災のために中止。京都は揺れがひどいものの、家屋の倒壊などなく、割と呑気であった。我が家でも茶碗一つ割れずに普通に学校に向かったが電車が完全にストップ。これぐらいの地震で、、という感じだったがこの日は休校になった。市民寄席はどうなんねんやろ。。電話は不通だったので、2時ごろに公衆電話から京都市に電話。「えー多分やると思います。。」ホンマかいな、と思い、家に帰ると電話が復旧しており、まもなく京都市から中止のお知らせ。さっきのは何だったのか。夕方になって燃え盛る神戸の町を見て、真っ青になった。落語会どころやなかったのだ。。

ちなみにこの日、神戸あたりに住んでいた笑福亭福笑はこの日、家が半壊。この日、出番だったので午前中に京都市に電話すると「今日はやります」とのことであったので、何時間もかけて京都会館に向かった。着いた途端に中止だと言われてすごすご帰ったとか、後日に何かの落語会で聞いた。ちなみに福笑は被災経験を元に「ボランティア」という新作落語を作っている。もちろん、好意はありがたいんだが、変な輩もいっぱい来て、そうしたことを描いた落語。さすが福笑である。

京都市は呑気だな、と思われるだろうが、震災当日の京都、大阪はこんなもんだったのだ。神戸がえらいことになってることを知ったのは夕方以降であったのだ。地震も当初は京都が最大震度だと報道されており、揺れは大きかったものの、たいした地震じゃなかったな、とか思ってたのだ。とにかく、情報が来るのが遅かった。民放も通常の放送だったしな。京都、大阪でこれだから東京の反応はさらに鈍く、官邸の対応が遅かったのもわかる。震災から一週間後に上方落語勉強会があって、その時のパンフが残ってるが、東京の地震学者が「東京じゃなくてよかった!」と発言したり、震災現場に来て写真を撮って帰るアホがいたり、当時の府知事(ノックの前ね)が「炊き出しぐらい自分でやれ」と被災者を罵倒したり、と色々あったことを思い出す。しばらくはグラッと来たら、ビクッと起きてましたな。

平成7年3月22日
「軽業」林家染八(現・林家小染
「傾城の誠」桂枝三郎
「欲の熊鷹」笑福亭鶴志
「猿後家」桂文紅
「首提灯」笑福亭松喬
「三十石」林家染丸

書き出してみると、やっぱり豪華な顔ぶれだったんだなあと思う。どの回にも桂文枝笑福亭仁鶴露の五郎と言った大御所級が出演している。今から10年以上も前のことだが、やっぱり記憶が断片的に甦ってくる。席は一番前で回りは自分の年齢の4倍ぐらいの人ばかり。年寄りに混じって落語を楽しむ中学生は周囲からは目立ってたんだろうなあ、、当時は2週間に1回ぐらいの割合で落語会行ってたもんな。。

大きな会館だったのに、滅多に満杯にならない。始まってから、仕事帰りの人がバラバラ来てたんで幕開きはガラガラ。前座さんはつらそうだったが、時間が進むごとにどんどん熱気がむんむんでトリの時には割れんばかりの笑い声で大盛り上がりであった。特に林家染丸師匠の「三十石」の熱気を今でもはっきり覚えている。舟歌のシーンで場内がシーンと静まり、思わず涙が出そうになった。観客全員がその芸に酔っていたのだ。

中学生の頃、京都市に市民寄席の過去のプログラムをもらいに行ったことがあった。京都会館にあった文化課まで市バスでもらいに行ったことを思い出す。200回記念の時に作ったパンフのコピーに載った過去のプログラムに目を輝かせた。今はそのコピーがどこに行ったか覚えてないが、入門仕立ての桂三枝が古典をやっていたことと、前座の名前に笑福亭さんま(さんまはほんの一時期、落語をやっていた。正確さでは若手随一で本人もよく稽古したらしいが、全く受けなかったらしい。この人は笑福亭松之助の弟子。松之助も露の五郎と一緒で、ずっと落語をやってたわけではない。若い頃は吉本新喜劇の脚本を書き、座長をやってたこともあり、割と何でもできる人なんである。ただ、落語の持ちネタの数は随一で今の落語家で松之助に稽古をつけてもらってない人はいないと言われるほど。。の割には落語はそんなにうまいとは思わんのだが。。先日、湯布院映画祭で見た「弥次喜多道中 てれすこ」で松之助が出ていた。平山秀幸監督は松之助のファンで松之助が出演している会にもよく行くらしい。松之助が撮った「夢だけが人生やない」(YOSHIMOTO DIRECTOR'S 100 〜100人が映画撮りました〜
の一本)を見て激賞していた。。話がそれまくりだが、さんまを育てた師匠はそういう人だったわけです)を見つけて一人で盛り上がっていた。それからもう10年以上がたったわけである。私が最後に行った会が第215回だが、今回は287回。あと何年かで300回である。多分、300回は行くでしょう。

こんなこと書くとそれ以来、久しぶりに行ったみたいですが。。一昨年からまた落語熱が再発して、市民寄席は連続で通ってるんで、別にそう感慨深げにならなくてもいいんですが。。

もうちょっと続きます。