京都市民寄席よまやま噺〜序〜

tetorapot2007-09-23


京都市民寄席に行って来た。本日は50周年記念で会場はいつもの明倫、京都芸術センターではなく、祇園甲部歌舞練場にて開催。都をどりの会場ですな。

市民寄席が始まった昭和32年。行政主催の落語会としては初めての試み。当時の京都は富貴もあったし、京都花月もあったが、当時の寄席は漫才が中心。落語もあったが、漫才の間に挟まった短い時間しかない。これは京都だけでなく、大阪も同じことで、実は未だに角座やNGKでは同じ状況が続いている。落語をたっぷり聞く場があんまりなかったのだ。大好評につき、会場は祇園八坂倶楽部、先斗町歌舞練場、祇園会館を経て、京都会館に年4回の開催が年6回になった。私が通っていた時期はちょうどこの頃。前の方はしっかり詰まっていたが、後ろと2階の自由席はガラガラ。会場が大きすぎた。現在は年4回の開催となり、会場もぐっと小さくなり、明倫の京都芸術センターに移転した。

市民寄席のもう一つの特徴は協賛、番組編成が上方落語協会であったことだ。協会が結成されたのは昭和32年。市民寄席が始まった年である。市民寄席の歴史はそのまま、協会の歴史でもあるのだ。だから協会は市民寄席をとても大切にしており、後年になっても桂文枝桂春団治桂米朝と言った大看板が出演していた。ここのギャラはめちゃくちゃ安かったそうだが、若手落語家にとっては市民寄席に出るのが一つの励みであった。たっぷりと時間をかけて大ネタがやれる数少ない機会であったからだ。編成を行っていたのは桂米朝。出演者からネタまで全部決めていた、という。

どうして協会が市民寄席を大切にしたのか。それは京都で本格的な落語をする場がなかったこともあるが、当時の上方落語を巡る状況も関係する。当時の上方落語どん底であった。昭和20年代後期に五代目笑福亭松鶴、二代目桂春団治、桂米団治といった大看板を次々と失い、残ったのは一線を退いた長老と落語をやっと覚えだしたばかりの若手が数人。。六代目松鶴米朝文枝も三代目春団治も落語家の卵であった。唯一、寄席にも出演している大看板と言えば三代目林家染丸。この人が初代の会長である。当時、大阪在住であった司馬遼太郎は落語ファンであったが落語と言えば東京、当時の江戸落語桂文楽古今亭志ん生三遊亭円生と黄金期を迎えていた、上方落語の存在をよく知らなかったらしい。米朝によると当時の上方落語に対する、一般認識は「上方落語?ああ、まだあったんかいな」であったそうだ。恐ろしいことに、これが関西人の一般認識であったのだ。

上方落語協会は東京の落語協会とは大きく性格が違う。東京は落語専門の寄席があり、落語協会落語芸術協会が落語家を出演させている。協会に入らないと寄席への出演ができない。しかし、上方落語協会は違う。寄席への出演は、落語家本人が所属する会社、松竹や吉本が決める。

協会はただの親睦団体であった。だからこそ、協会が主催する落語専門の寄席が協会にとっての悲願であったのだ。二代目会長となった松鶴は島之内教会を借り受け、島之内寄席を昭和47年にスタート。月数日の興行であったが、はじめて協会が主催した落語会であった。が、これも会場が転々とし、いつしか月イチ興行となっていった。今は皆様、ご存知のように協会が主催する定席、天満天神繁昌亭が平成18年9月に完成。一年たった今も連日満員が続いている。長い長い道のりであったのだ

なお、協会の歴代会長は染丸(吉本)→松鶴(松竹)→春団治(松竹)→文枝(吉本)→露の五郎兵衛(元吉本)→三枝(吉本)となっている。米朝の名前がないのだ。平成6年に露の五郎が会長に選出されたことで、事件が起こった。協会の運営に不満があるとして、桂枝雀桂ざこば一門が協会を脱退。脱退の理由は明白で米朝が会長になれないことへの不満であった。露の五郎はその昔、上方落語がドン底の時期に役者に転向していたことがある。苦労を知る者から見れば、裏切り者に見えたのであろう。(露の五郎は自著でもそのように書いている)「親睦団体ならいる必要おまへん」枝雀の発言に協会は反論することができなかった。

なお、後にざこば一門は復帰したが、枝雀一門は未だに復帰しておらず、繁昌亭への出演もない。ざこばは枝雀への義理で脱退したらしく、三枝が会長になった際に三枝自ら復帰を呼びかけたらしい。一方、三枝と南光は枝雀が亡くなった際に一応の和解はしているが、膝詰めで話すほどの信頼関係はないのだろう。協会のホームページの協会員系図では一門おろか、枝雀の名前すら載っていない。少しひどい。

また米朝一門でも末弟の桂宗助は所属していないし、その一つ上の桂団朝も長らく所属してなかった。米朝も故意に団朝、宗助は所属させなかったらしく、協会の運営に考えることがあったのだろう。亡くなった先代歌之助は脱退直後の彦八まつり(これは協会主催のおまつり)の楽屋にて露の五郎と二人きりになったらしく、とても気まずい雰囲気になった、と語っていた。米朝一門が脱退するのではないか、とも噂されたが、後続は出ず。ちょうどこの時期、七代目笑福亭松鶴問題で笑福亭一門は大荒れでぎすぎすした雰囲気が広がっていたのを思い出す。笑福亭福笑が「七代目笑福亭松鶴襲名ドキュメンタリービデオ 骨肉」(確かこんな名前だった)をどっかの落語会で上映するとか言ってたのを思い出す。。ああ、あれは見たかった。。

関係ない話題が続いてしまったが、(南光と三枝の喧嘩についてはリクエストがあったらまた書きます。かなりみっともない喧嘩です)市民寄席がそうした上方落語が苦しい時期に始まったこと、そして、協会が初めて協会として編成を行った落語会であるという二つのことから思い入れの深い落語会になっているのだ。

そして私にとっても市民寄席は大変思い出深い落語会であった。ここに一冊のファイルがある。ここには過去に行った落語会のパンフやチラシがファイリングされている。初めて市民寄席に行ったのは平成5年3月24日に開催された第203回市民寄席。出演は桂文華、桂雀々桂春之輔笑福亭仁鶴立花家千橘、そしてトリはこの前年に襲名したばかりの桂文枝であった。当時、中学2年生。私の本格的な落語会通いが始まったきっかけであった。

思い出話は楽しく、そして長い。わあわあ言うております。おなじみの「市民寄席よもやま話」序、お時間でございます。


あ、明日か明後日には続きやるよ。だって結局、50周年記念については何も書いてないもん。書き出すとマジでとまらんのよ。