森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」

右が森達也


 今村昌平がATGで「人間蒸発」を撮ったのは1967年。今から40年ほど前のことだ。蒸発した男の婚約者をカメラは追い続けるが、途中でスタッフの打ち合わせが幾度も撮影される。その打ち合わせでは「ネズミ(婚約者の女性)は女優になってきたね」「つまんねえなあ。なんか展開がいるな」と赤裸々に語りまくっとる。やがてネズミは彼女と共に旅を続ける露口茂に興味を抱き始める。今村昌平の狙いはカメラを向けられることで徐々に演技していくようになるネズミを描くことだった。そこには演出はあった。しかしそれ以上にネズミ自身がどんどん変わっていったのだ。正直、今までドキュメンタリーを見るときにはそれなりに背筋を伸ばして問題意識を持ってみていた私はあっけにとられた。こんなの、いいのか、と。

 かつて佐藤栄作は新聞記者に対し、「いい加減なことを書く奴らは出て行け」とテレビを前に演説を行った。国民はありのままを聞けば見れば、俺の真意を見抜くだろうと信じたのだ。これがまさにメディア・リテラシーなんだろうと思うテレビ東京メディア・リテラシーを「メディアからのすべての表現を鵜呑みにせず主体的に読み解く能力」と定義する。

 しかし、テレビは「ありのまま」を写し出しているのか。番組の中に出てくる報道マンは公正中立にこだわり続ける。それはメディアの影響の大きさ、そして公正中立の報道の難しさをよく知っているからだろう。ある一つの問題の切り取り方一つで受ける印象は随分違う。丸いタマゴでも切りようで四角なのだ。そして視覚によるものは説得力が大きすぎる。

 それに対して、ドキュメンタリー映画の監督は公正中立に対してのこだわりが薄く、ドキュメンタリーはフィクションだと割り切っている様が印象的であった。自分の思いが載せられる話題を選んだ時点で公正中立などありえないのである。公正中立を貫くことに意味を見い出していないのだ。森達也と言えども、それは同じであろう。「A」にしても「A2」にしても、その撮影スタイル自体が、当時のオウムに対する放送局の姿勢に対する異議申し立てから出発したことは確かだろうし。

 本作の面白さは森達也のイメージをうまく利用したところだろう。インタビュー中で携帯を鳴らすわ、途中で抜け出して仕事を始めるわ、遅刻するわ、挙句の果てにタバコを吹かせながら「ギャラがいいから、受けた」と言い捨ててしまう。そこには、生真面目にメッセージを送り続ける”寡黙な社会派”のイメージはない。「この人、こんな人やったんや。。」

 「全身小説家」は、井上光晴が女たらしで「うそつき光ちゃん」であることを描き続ける。そうした暴露的な面白さもまたドキュメンタリーの面白さであろう。たいしたドラマでなくても、それが本当かも。。と思わせる説得力があれば人の興味をぐっと引き込む。それにすっぽりとハマってしまったのだ。森が退場したあとに、吉田の成長が描かれる。正直、これが本筋であると思った。しかし最後の最後には全てをひっくり返すようなどんでん返しで終わる。。陽動に陽動を重ねて、狙いはここだったのか、と思い知らされた。

 これも、ドキュメンタリーなのだな。。森達也って映画は面白いが、メディアへの泣き言のような文章が多いのでやや敬遠していたが(それでも著作の半分以上は読んでいる。2001年の「新潮45」の12月号に発表された小人プロレスについての記事で初めて森の文章を読んでファンになった)想像以上にこの人、面白い人だと思った。いろんな意味で悪人だと思ったプロデューサー日記を読んでる限りではかなり天然な人なようだが、どこまで本当かわかんねえ。そうした印象すら、罠かもしんねえしな。。

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