生きる 1952年 東宝

 今日は黒澤明の代表作の一つ「生きる」。東宝争議に嫌気がさして松竹や大映で「羅生門」や「白痴」を撮っていた黒澤が久々に東宝で撮った作品です。脚本は「羅生門」に続いて黒澤とは二度目の仕事となる橋本忍。以後、彼は黒澤映画の脚本を多く書くことになります。時は1952年。やっと日本が復興に向けて走り出した時代でした。

 定年間際の市民課長、渡辺勘治(志村喬)は痛む胃を抱えながら今日も決済にハンコを押し続ける生活を送っていた。市民課の仕事は市民からの陳情を受けることだ。渡辺課長は生真面目で欠勤は一切しなかったが、満足にその仕事を果しているとは言いがたい。今日も暗渠埋め立ての陳情を持ってきた主婦達(三好栄子、菅井きん*1)を、ロクに話も聞かずに他の課に回してしまった。彼の生活は文字通り、無気力、無感動であった。それに影響されてか、課の雰囲気は暗く重い。そんな空気を若手職員の小田切とよ(小田切みき)は嫌っており、課員にこっそりとあだ名をつけていた。ミイラ。それが渡辺課長のあだ名だった。彼は生きながらにして死んでいるようなものだった。

 最も、彼も当初から無気力な職員であったわけではない。かつては業務改善の為の提言を行なおうとしたこともあった。しかし、役所の中では目立つ者は出世が遅れる。市民課の野口(千秋実)らが言うように「物を言わない者が出世する」ところなのだ。彼が若い頃に書いた提言書も今ではゴミだった。妻を早くに無くし、男手一つで子どもを育てねばならなかった彼に上司と戦ってまで意見を通せ、というのは難しかった。

 ある日、痛む胃を耐えかねた渡辺は医者に駆け込む。医者は胃潰瘍だと言った。しかしその症状は紛れも無く、胃ガンだった。待合室で出会った患者(渡辺篤*2)の話にもぴったり符号した。医者もそれをあえて否定しなかった。彼は崩れ落ちた。

 息子(金子信雄)にも嫁(関京子)にも相談することなく、一人で悩む渡辺。出勤する意欲も失せて無断欠勤を続けていた。飲み屋で出会った三文文士(伊藤雄之助)に案内されて、一度も行ったことの無いパチンコ屋、ストリップ、バーと夜の歓楽街をさ迷い歩き、貯金を使い果たしてしまう。しかし、心がはずむことはなく、ダンスホールで「命短し」を歌いながら、涙をボロボロ流してしまう。

 ある日、彼は役所を辞めた小田切とよに逢う。彼女の明るい性格と生きる意欲にあふれた姿に惹かれた彼は彼女と遊び回る。とよを父の愛人と勘違いした息子は「女にうつつをぬかすのはいいですが、我々にも財産をもらう権利がある」と詰め寄る。息子にも見棄てられ、どん底に落とされた渡辺であったが、とよの助言を受けて遂に腹をくくる。生きている間に、自分が役所でやれることをやろうと考えたのだ。役所に復帰した渡辺課長はたらい回しになっていた暗渠埋め立ての陳情を調査し始めた。。。

 映画全編を通してアップがとにかく多い。俳優が実に豊かな表情を披露している。志村喬は驚きと悲しみに目をぎょろぎょろ動かし、小田切みきは魅力たっぷりに楽しげに笑う。志村喬の低いかすれ声も印象的だ。この人は「鴛鴦歌合戦」で披露したように朗々とした声の持ち主なのだが、この映画では胃の底から絞りきるような声である。黒澤の映画は一般的に台詞が聞き取り難い。伊藤雄之助なんか、口跡が悪いから本当にわからなかった。台詞の一つ一つも重みがあって映画の醍醐味なんだが、俳優の表情でドラマは充分に読み取ることができる。言葉よりも表情の動きを大事にした映画であったと思う。

 主人公の渡辺課長は決して特別な人間でもなくて普通の人間である。しかし、黒澤と橋本はそうした普通の人間を「駄目人間」と決めつけてしまう。息子を育てる為に如何に父は苦労したか、親子は如何に深く結ばれていたか、そして父はどれだけ息子を深く愛しているかがフラッシュバック技法で説明される。出征する際に思わず、父親にしがみつく息子。いい場面だ。しかし、黒澤と橋本は小田切とよに「息子さんには息子さんの人生があるんだから。。」と言わせてしまう。父親のそうした思いをあっさりと切り捨ててしまうのだ。この息子を演じたのが金子信雄。本人のキャラ(山守だもんな。。)と重なって、親父の退職金を当てに家を買おうと嫁と相談するシーンですごく冷淡な息子に見えるが、決して悪い息子とは描かれていない。

 自分の人生の意味、それは結局、自分が探し出さねばならない。このシビアすぎる命題が時代を越えて人々に突き刺さる。食べて生きているだけでは生きているとは言えない。そして過去は振り返るものではなくて、次の段階に上がる踏み台である。混乱期は終わったとは言え、まだまだ食うのに必死だった時代にそう主張していることが50年以上立ってもこの作品が不朽の名作と呼ばれるゆえんだろう。

 渡辺課長は余命半年の命を使い切り、暗渠埋め立てを成し遂げて公園を作った。助役が言うように彼一人で作られた公園でないのかもしれない。課員が言うように「偶然の産物」なのかもしれない。しかし、そんなことは問題でなかった。かつて涙ながらに歌った「命短し」を公園のブランコに乗り、傍目にも楽しげに歌いながら絶命した渡辺課長が遺したものには違いないのだから。彼が残した公園で遊ぶ子どもを眺める紳士をラストカットにして映画は終わる。黒澤は人間を厳しく見るが同時に希望にあふれたものと見ていたことが、何故か嬉しかった。

スタッフ
監督:黒澤明、製作:本木莊二郎、脚本:黒澤明橋本忍小国英雄 撮影:中井朝一 音楽:早坂文雄、美術:松山崇

キャスト
志村喬金子信雄、関京子、小堀誠、浦辺粂子南美江小田切みき藤原釜足、山田巳之助、田中春男左卜全千秋実日守新一中村伸郎、阿部九洲男、清水将夫木村功渡辺篤丹阿弥谷津子伊藤雄之助宮口精二加東大介菅井きん、三好栄子

生きる [DVD]

生きる [DVD]

*1:この頃から既におばさんだった

*2:黒澤明はこの喜劇出身の人をよく使った。「七人の侍」の饅頭屋もいいが、本作の患者役はもう絶品である。本作にも登場しているが、左卜全もよく使った。