祖母死去

osousiki

☆入院していた祖母が死んだ。先週の日曜日に見舞いに行った際には元気で容態も回復してきていたのだが、ニ、三日前から具合が悪くなり、明け方に息を引き取った。死に顔は首に出来た内出血のあとが痛々しいものの、安らかなものであった91歳の大往生であった。何度も危機を経験してきてて、家族も慣れっこになっていて、今回もそうだろうなあと思っていただけに不意を撃たれた感じであった。

大正2年、東山に生まれる。姉と妹の二人姉妹だった。家は米屋であり、裕福であったらしい。長じては親戚に養女と入り、祖父と結婚した。が、養母と合わなかったらしく、苗字は元に戻している。姉の旦那が博打打ちで本家は没落。祖父母は下町の貸家をもらい、八百屋を始める。祖父は大変な働き者で、せっせと働いた。やがて戦争の影が濃くなり、祖父も召集された。当時は32歳で二人の娘がいた、と言う。戦争中は食糧難であったので祖母も家に畑を作り、堤防につくしを摘みに行ったと言う。空襲が心配されるようになって、当時、高校生だった長女にも疎開の話が出た。しかし、長女は泣いて母親から離れることを嫌がった。二年間の抑留を経て、祖父が帰ってくるまでの間、祖母は一人で家を守っていた。戦後も下町で八百屋をやり続け、5人の子供を見事に育て上げた。私は三男の息子である。私が生まれた時に既に祖母は65歳で一線を退いていた。祖母は大変に子供が好きで私もよく可愛がってもらった。私の兄弟が最後の孫だったのだ。いい思い出しかないが、若い頃はしっかり者でしぶちんだったらしい。80歳を過ぎたあたりからボケが始まり、私の顔を見ても誰かわからなくなった。82歳の時に祖父を失い、5年後に姉も亡くなった。ボケてからは歌って踊っての愉快な婆さんになってしまったが晩年は自分の名前すらおぼつかなくなり、恍惚の人になっていた。

☆大正、昭和、平成と生き抜いてきた祖母であったが人生の主戦場はやはり激動の昭和であったのだろう。こうした市井の人の営みによって日本の戦後の発展はあったのだ。また一人、昭和を生き抜いた年寄りが亡くなった。