熊井啓、死去

tetorapot2007-05-26


 熊井啓が亡くなった。享年76歳。5月18日に倒れて、病院に搬送。一時は意識も回復し、元気だったらしいが、23日に容態が急変。そのまま亡くなったらしい。遺作は2002年の「海は見ていた」。奥田瑛二によると新作の準備を進めていたらしく、企画もできていた。その矢先の死。無念であったろうに。

 監督作品は19本。同年代の監督に比べると少ない印象があるが、1964年という遅めのデビューからすると2年に1本のペースだったので、そう悪くない。1954年に日活に入社。久松静児田坂具隆の助監督につく。専ら脚本家として活躍する。

 1964年に自作シナリオの「帝銀事件・死刑囚」でデビュー。死刑判決を受けた平沢貞道を無罪とする立場から事件を細かく調べて、事件の経過を描いている。前半は事件そのものをそっくり再現し、(犯人役は平沢役の信欽三ではなく、加藤嘉がノンクレジットで演じている)後半はその後、平沢が逮捕され、死刑判決が確定するまでを、取材にあたった新聞記者の目を通して描いている。帝銀事件は本当に恐ろしい事件で未だに真相は闇の中。平沢貞道の支援をしていた竹中労は「米軍が薬の効果を試すために日本人を実験材料にしたのだ」と主張していたが、映画でも触れているが731部隊の関与も疑われており、昭和史の謎になっている。重い題材ではあるが、映画の足取りは割りと軽く、テンポもよい。敬愛する黒澤明の影響からか、「野良犬」のような雰囲気になっている。闇市傷痍軍人などで事件当時、1948年を再現することに成功している。

 白井佳夫はかつて「あなたの映画は、いつも正義感の強い主人公が画面の中心に立って、熱い正義の台詞を主張しているような映画だ」と揶揄したことがあったが、後日、熊井監督は「今度の映画は主人公は画面の端にいて、正面切って正義の台詞なんか言わないからね!」と言い返されたらしい。おそらく、70年代の白井さんがキネマ旬報の編集長やってた頃だと思うが、当時の映画評論界ってのは映画の出来栄え云々よりも監督の思想的立場が全てであった時代で、はっきり言うと社会党共産党のお抱え評論家が幅を利かせていた。思想で映画を見るのではなく、面白さで映画を判断していた淀川長治が異端と呼ばれた時代だ。

 熊井監督も所謂、そうしたカスみたいな評論家から絶賛されていた監督であったが、ごりごりの主義者ではなく、後年は社会派だけでなく、文芸映画も多く撮った。なお、白井さんに言い返したその目は笑っていたそうだ。俳優プロによる大作主義の先駆けとなった三船プロ石原プロによる「黒部の太陽」を撮った時に商業映画に転んだと主義者のカス評論家に批判されたこともあったらしい。熊井さん自身は黒澤明を敬愛し、三船敏郎とも仲がよく、出演も多い。三船さんの遺作となった「深い河」も熊井監督の作品であった。なお、本作は萬屋錦之介の遺作ともなっている。

 今は無き、シネマアルゴで「愛する」を見ている。当時、大学一回生でまだ映画に興味が持ってなかった頃であるが原作だった遠藤周作の「私が・棄てた・女」が好きだったので、見に行った。子どもの頃から映画館に足を運んだことは幾度もあったが、一人で映画を見に行く、しかも宿題とかじゃなくて自分の意志で見に行ったのは本作が初めてであった。そうした記念すべき作品であるが、出来栄えは悪い。戦後すぐが舞台となっている作品を現代に置き換えるのには無理がありすぎるし、酒井美紀に魅力が無かった。その後、ビデオで「深い河」「日本の黒い夏 冤罪」「式部物語」を見たがもう一つ。「海と毒薬」は原作が強烈だったので、途中で挫折。「千利休 本覺坊遺文」は歴史に興味がある人なら面白いと思う。

 社会派と呼ばれた人だが、コンスタントに映画が撮れたのはやはりその人柄と演出の手腕によるものだったのだろう。日本映画が駄目になった80年代以降、様々なところから金を引っ張って映画を撮っている。主義の為に映画を撮るのではなく、映画を通して主義を訴える、そうした、映画の様々な一面、娯楽性やメッセージ性を並立して映画が撮れる人だったのだろう。またこれから作品を見ていきたい。合掌。

黒部の太陽

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