丹波哲郎、逝く

かなり元気な頃だな。。


 丹波哲郎が亡くなった。正直、ショックで声が出ない。昨年の大河ドラマ義経」で見たのが最後になった。頬の肉はげっそりと落ち、声にも元気がなかった。この人でも年を取るのか、と残念に思ったのを覚えている。享年84歳。年に不足はないと思うが、ここ最近の三池崇史作品での大活躍が目立つだけに惜しいと思ってしまう。

 彼ほどいろんな映画に出た人はいない。専属であったのは新東宝での数年だけであとはずっとフリー。しかしその作品の散らばりは東映に偏る。低予算映画の主演から脇役と何でも出た。芝居は決してうまいわけでもないし、台詞回しも下手な方だが、あの堂々とした体格に野太い声。そして若き日の丹波さんはめちゃくちゃかっこよかった。日本人離れしたかっこよさがあったのだ。物怖じしない性格は昔からで日活で金子信雄ら劇団の役者に「芝居が下手だ」とバカにされた時に「芝居が下手で何が悪い!俺がやっている役が君にできるのか!」と言い返したらしい。新東宝東映東京で撮られたギャング映画での正体不明の悪役、それは彼しかできなかった。

 1961年に丹波は「白昼の無頼漢」という映画に主演している。監督は深作欣二。長編作品のデビュー作であった。丹波が演じたのは、「戦後の日本でこんなこと考えるのは俺ぐらいだろう」と嘯き、現金輸送車強奪を企む不気味な男。黒人兵に韓国人ヤクザ、アメリカのチンピラを率いて、犯罪を敢行する。日活の若手監督はギャング映画を作る際に必ずこの作品を参考にした、と言われるほどスタイリッシュでテンポのいい作品であった。深作は「誇り高き挑戦」「ギャング対Gメン」「ジャコ萬と鉄」「解散式」と組み続けた。深夜作業組とあだ名されたように深作の撮影は長い。幾度もテストをやらせる深作と新東宝時代の早撮りが身についている丹波さんはとにかくぶつかった。深作が「テスト!テスト!」と叫んでると丹波さんは対抗して「ホンバーン!ホンバーン!」と怒鳴りまくった。作品ができあがったからでも「俺がちゃんと演出したからだ!」「冗談言うな!下手な演出を俺がかばったんだ!」と怒鳴りあった。それでも二人の仲がよかったのは、深作が初めて挑戦した自主映画の「軍旗はためく下に」に丹波さんが主演していることでもわかる。低予算なのでオールロケ。雨が降り続いて中断ばっかりの大変な撮影だった。しかし途中で予算が足りなくなってきて、深作は何と丹波哲郎に無心。「俺はプロデューサーじゃない!」と断った丹波だが、金策に苦労する深作を見て、700万を貸したらしい。面白いのはその後日談でその晩、丹波さんは深作に麻雀で大勝ちした。深作に勝ったのは初めてだったので払えと言ったら平然と「700万から引いといてくれ」と深作は答えたらしい。なんちゅう男や。友情はその後も続き、後に丹波さんは初プロデュース作品の「砂の小舟」の監督に深作を予定していたらしい。 

 深作が亡くなった時に「別に俺を待たなくてもいいからな、と心の中で会話してるんだ」と語っていたが、やはり知っている人が次々と亡くなっていくのはさびしかったと思う。今年の8月には盟友だった石井輝男も鬼籍の人となった。

 代表作はやっぱり「砂の器」になるのだろうか。思いつくままに書いてみよう。「網走番外地」「暗殺」「ポルノ時代劇 忘八武士道」「日本沈没」「直撃地獄拳 大逆転」「新幹線大爆破」「ひとごろし」「八甲田山」「事件」「マルサの女2」「ねじ式」「クレヨンしんちゃん 爆発! 温泉わくわく大決戦」「十五才 学校IV 」「新・仁義の墓場」「実録・安藤昇侠道伝 烈火 」「カタクリ家の幸福」「釣りバカ日誌13 ハマちゃん危機一髪!」 と実に様々なジャンルに出続けた人であるが、やはり石井輝男深作欣二野村芳太郎三池崇史と組んだ作品が印象深い。リアルタイムで後年の活躍が見れたことは遅れてきた邦画ファンとしても幸せなことであった。

 あの豪快な笑いがもう見れないと思うと寂しい。出演作品の全てが傑作だ、というわけでないが、気丈に振舞っていても自らの老いに絶望を感じている悲しい老人を演じた「十五才 学校IV」のように後年でもキラリと光る演技を見せてくれていた。不世出の俳優であった。合掌。

大俳優 丹波哲郎

大俳優 丹波哲郎